| 1917年 | 創業 |
| 1919年 | 国産初の膀胱鏡を開発 |
| 1919年 | 国産初の胃鏡を開発(NHK-TV プロジェクトXにて紹介されました。) |
| 1939年 | 世界初の関節鏡を開発 |
| 1982年 | ロッドレンズシステム採用膀胱鏡RLシリーズを開発 |
| 1989年 | 膀胱鏡R2シリーズを開発 |
| 1992年 | 膀胱鏡R3シリーズを開発 |
| 2001年 | 膀胱鏡R4シリーズを開発 |
| 2002年 | 新ブランド膀胱鏡TAKEI-SCHOELLYシリーズを開発 |
| 2005年 | ISO9001(2000年版)取得 |
1917年創業以来、数々の膀胱鏡をはじめとした内視鏡を開発してきました。
ここに創業当時の膀胱鏡の開発談をご紹介いたします。
この資料は日本オルガノンM様主宰OUA機関誌第1号に掲載されたものです。
また、この後日談は以下のホームページにて公開されております。
http://oua.organon.co.jp


泌尿器科が医学の一分野として独立したのは、膀胱鏡の発明とその発達にあるとされている。膀胱鏡の始祖と謳われるのがドイツのマックス・ニッツェで、1886年、当時発明されたエジソンランプを光源に用いて初めて開発に成功した。以来、光源こそ患者の体外に置かれるようになったものの、その根本原理、内視と治療の方法は現在に至るも変わっていない。初の国産膀胱鏡の登場は、それから約30年後のことである。

国産膀胱鏡製作の頃の武井器械店一同。前列右から三人目が武井勝。

大正9年(1920)10月、日本泌尿器病学会(現日本泌尿器科学会)第2回集談会において、日本初の膀胱鏡が供覧された。「独仏米ノ製作ニ何等譲ル處ナキヲ得タル」と絶賛を博した、この和製膀胱鏡の開発・製作にあたったのが、大正6年創業の武井器械店[現(株)武井医科光器製作所]店主・武井勝である。
武井は尋常小学校を卒業すると、明治38年(1905)に石渡器械店に入店する。その後、小此木病院副院長・小野鑛造の勧めで、喉頭鏡(アントロスコープ)を試作する。しかし、苦心の末できたものは、ドイツ製に比べて管径が太く、とても実用にはならない代物であった。細い管径を製造するには当時の技術はあまりに未熟で、外国製品に劣らない物を作ることは夢のような話であった。そこで武井は、アントロスコープと構造が同じで、しかも管径の太い膀胱鏡(検査用)なら近道だと判断し、独立と同時に検査用膀胱鏡の試作研究に取りかかった。これが国産膀胱鏡開発の端緒となった。
当時、日本の医学界は医療器械を欧米からの高価な輸入品に頼っていた。しかし時代は第1次世界大戦の真っただ中にあり、ドイツ製品は入手が困難で、一刻も早い国産品の誕生が待ち望まれていた。

ニッツェ式膀胱鏡(直達膀胱鏡)の基本構造は、嘴部、軸部、接合輪、漏斗部、電源に大きく分けられる。嘴部はフィラメント豆電球と、これを保護する金属筒で構成されている。軸部は金属製の円筒で、管内に光学装置(レンズ)を充填。接合輪に電源からの電纜(絶縁体で覆った電線)が接合され、漏斗部に医師が患部を診るための接眼レンズが設置された。光学装置は、先端部から漏斗部にかけて対物レンズ、中間レンズ(転向レンズ)、接眼レンズと配置され、複数枚のレンズやプリズムによって成り立っていた。現在の尿道・膀胱鏡は棒状のロッドレンズが採用されているが、当時は幾枚ものレンズが組み合わされていたのである。このほかに“引き物”と呼ばれるコックやネジ類があった。
武井は、まず外国製品を分解してその構成の一つひとつをつぶさに調べることから始めた。部品やレンズは専門の職人に徹底的に研究させた。また、順天堂皮膚科泌尿器科医長・坂口勇の知己を得て、試作品に対する専門的な検定やその後の改良に指導を仰いだ。

「家では笑わない、気難しい父親でした。凝り性で、いつも膀胱鏡の管を覗いていました」。長男の信一(77 歳)は、父・武井勝をこう回想する。実用に適した膀胱鏡を世に送り出すため、武井は研究と改良を重ねるが思うようには運ばなかった。レンズ製作の技術的な行き詰まり、多額の投資による経済的ひっ迫、競合の代理店からは「レンズはドイツ製品に劣る」などと中傷にさらされた。大戦が終わると、欧州からの輸入も再開する。友人の忠告もあって、一時は製作を断念し、自らも輸入販売を手掛けようとしたが、「これまでの棘の道を思うと、このまま挫折するわけにはいかない」と、再び難局に立ち向かった。
関東大震災前、東京の下町には多くの職人たちがいた。武井の膀胱鏡の製作を第一線で支えたのは、彼らである。洋白(めっき合金)を材料に細い管や真鍮(黄銅)製の引き物を作る金具職人、ガラスレンズや電球を製作する職人、めっき職人など、自慢の腕にものを言わせて困難な作業にあたった。なかでもレンズ製作はその極みであった。何人もの手によって挑戦と挫折が繰り返されたが、最終的には、かつて陸軍砲兵工廠精密工場レンズ部に在籍していた光学技師・清水半治郎が見事に完成させた。直径2mm程度のガラスレンズの芯(中心)を取る作業や特殊なプリズムの開発には、技術者のセンスと経験が頼りだったに違いない。職人たちが作り上げた部品を組み立てては、試行錯誤を繰り返した武井だけに、長年の希望が実現された喜びは言葉に尽くしがたかった。
震災後、武井器械店に入店した福与常吉(90歳)[現(有)新興光器製作所代表取締役]は、「儲けがあれば店員に還元した。義理がたい人」と語る。名人気質で酒豪の職人たちとの心通う逸話も残され、剛と柔を併せ持った明治人の横顔が浮かんでくる。

国産初の膀胱鏡を完成した後も、武井はいっそうの改良に励み、倒像を正像に改めた膀胱鏡をはじめ、医学者の協力を得て洗滌用膀胱鏡、写真用膀胱鏡、ラジウム治療用膀胱鏡、婦人専用膀胱鏡、輸尿管膀胱鏡、砕石用膀胱鏡などの製作にも取り組んだ。また膀胱鏡技術を応用して、胸腔鏡や胃鏡、腹腔鏡と各種内視鏡の開発にも力を注いだ。
より細く、明るく、使いよく、そして患者の負担を軽減する膀胱鏡を求めた武井たちの努力によって、外国製品の追従を許さぬ精巧な和製膀胱鏡が続々と誕生した。職人たちが挑んだ国産化の技術が、泌尿器科学の発展に大いに寄与したことは言うまでもない。
〈文中敬称略〉
- ■参考文献
- 『泌尿器科学史』(大矢全節著 思文閣 昭和13年)
- 『膀胱鏡手技』(金子栄壽著 鳳鳴堂書店 昭和25年)
- 『医科器械學雑誌』
- 『日本泌尿器病學會雑誌』
- 『皮膚科及泌尿器科雑誌』


関東大震災前、東京の下町には多くの職人たちがいた。武井の膀胱鏡の製作を第一線で支えたのは、彼らである。洋白(めっき合金)を材料に細い管や真鍮(黄銅)製の引き物を作る金具職人、ガラスレンズや電球を製作する職人、めっき職人など、自慢の腕にものを言わせて困難な作業にあたった。なかでもレンズ製作はその極みであった。何人もの手によって挑戦と挫折が繰り返されたが、最終的には、かつて陸軍砲兵工廠精密工場レンズ部に在籍していた光学技師・清水半治郎が見事に完成させた。直径2mm程度のガラスレンズの芯(中心)を取る作業や特殊なプリズムの開発には、技術者のセンスと経験が頼りだったに違いない。職人たちが作り上げた部品を組み立てては、試行錯誤を繰り返した武井だけに、長年の希望が実現された喜びは言葉に尽くしがたかった。